西宮詩夫の世界
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自   伝

池田永治の世界その3

「自画伝」 池田永治 (『中学世界』所載大正八年五月一日)

(其の一)

 生まれは京の三条木屋町、産土(うぶすな)神は祇園社。加茂川の水で産湯をつかっても神無月に生まれた不幸な子は、生まれながらに餓鬼道に堕ちた。産後の肥立ちが悪かったので、乳も十分なかったから、赤ん坊ではなくて、シガンダのような児だったそうな。私が生まれた憲法発布の年から、京都にゴタゴタが多くなった。壮士が暴れたり、大地震のトバッチリをくったり、今年のような悪感冒も流行って、軒並みにやられた。私の家(うち)でも、ババがそのおそめかぜにやられてしまった。ババは世間並み以上私を可愛がってくれたそうだが。
 四歳(よっつ)の正月は大阪でした。それからの十八年私は其処の水で育った。煤煙(すす)をあびて大きくなった。頭部(あたま)に京風のオケシをのこして、長い袂のベベを着て、女の子とばかり遊んだから、シッコをするのも蹲踞(しゃがん)でした。腕白はしなかった。その代わり弱虫だった。ベソを掻(か)いた。

(其の二)

 幼稚園の行きかえりに廻り道をして地蔵様へ寄った。其所(そこ)に地獄極楽の額がかかっていた。その頃は腹いた胃病が持病、朝寝坊は昔も今も変わりがない。始めて学校へ行く様になった頃には、日清戦争があった。何所(どこ)の絵双紙屋にも戦争の絵、原田重吉の門破り、小野口工兵が地雷をふせているところや松崎大尉の奮戦している…が下がっていた。日清談判破裂して…の唄が流行ったのもその頃だった。学校の成績はよくなかった。だんだん悪くなったので、親父がよく学校へ呼び出された。その都度私は酷(ひど)く親父に叱られたので、余計学校が嫌いになった。その頃の学校には、鬼だの虎だのという先生がいた。親父よりも怖いのが沢山(どっさり)いた。学校から帰るとまた稽古にやらされたが、大抵抜け休みをして、馬場へ兵隊の訓練を見に行って時間を量って帰った。

(其の三)

 それが親父の耳に這入(はい)って、或る時は二階から蹴落とされた。或る時は親父に追われて裸足(はだし)で家のまわりを逃げた。キサマのような奴は死んでしまえ…と随分無理な事を云う親父だった。私は学校を下げられて、到頭船場の金物問屋へ小僧にやられた。三日坊主だと他人は悪口を云ったが、それでも一月許(ばか)り辛棒していた。逃げて帰ったが家へ入れてくれない。隣家(となり)に可愛がってくれる爺さんがいたので、漸(やっ)と詫びをして貰った。家で小僧と一緒に木版(はん)を刻(ほ)る稽古をした。子守りもさせられたが、それでも学校へ行くよりいいと思った。大勢で芝居の真似をしたり、棒切れをもって、可成り遠方まで喧嘩をしに行ったものだ。そうして遊び廻っているうち、又学校へ追い上げられた。友達の弟と同級するようなザマなめを見て、いささか気羞ずかしい思いがした。漸と高等小学を出たのが十七歳だった。

(其の四)

 私は画家(えかき)になりたいと親父にせがんでいたが親父は自分の趣味の製版、私に継がせようとして、知己(しりあい)の印刷会社へ見習いにやられた。その当座は給仕代わりに茶坊主もやらされた。それから電話の取り次ぎ、晦日には集金にも歩いたが、親父の隙を探して窃(ひそ)かに東上の計画を立てていた。処(ところ)が急に親父が死んだ。
その前の夜は友達の家に行って、井戸の水をかぶって全快を祈ったが、その甲斐はなかった。春とはいえ中々寒かった。
とうとう父は死んで了ったから、それ以来医者も神様も私に信用がなくなった。私の東上は腰折れになった。全く悲観した。因みにこの頃は青年間にエンセイ自殺がひどく流行った。翌年の兵隊検査に合格したが補充にまわされた。いよいよ遁げ出す日がやって来た。東上する日がやって来た…。

(其の五)

 その日は天長節、翌四日新橋に着いたのが、伊藤公国葬の日だった。久しく憧憬(あこが)れていた東京の空は、シカメ面をして私を迎えた。二個の行李と一しょに芝の親戚へ揺られて行った。
 立志伝、成功談に中毒していた私は、なるべく新しい立場から打って出ようと思った。それで或る日高輪(たかなわ)の新聞屋に配達志願して見た。主人は私に新聞の籠を担がせてみた。思ったよりそれが重量であったから、フラフラとしたので断られた。それから煉瓦積みにも志願してみたが、駄目だった。△氏は私に一面識もない人であったが、色々と力をつけてくれた。紹介状を幾本も書いて貰って、地図と首っ引きで毎日歩いた。写真や絵画で見知っていた土地、建物にもヒョクリと出会(でくわ)すのは面白かったが、郷里を思い出させるような街を通ると、急に家族(うち)の事が思い出された。

(其の六)

 電車賃がタッタ一銭足りない為に、根岸から歩いて帰った。途中で鼻緒が切れて、家へ着いたのは夜中だった。空腹ではあるが飯とは云えない。飢(ひも)じいのを我慢して蒲団にくるまった。文展(第3回)を見た時はまったくおどろいた。大きな絵許(ばか)り陳列(なら)んだ時であったから、何より先にそれに呑まれて了って、絵もろくろく見ないで其処を出た。夕日をうけた桜紅葉は美しかったが、ベンチにかけて、ポカンと暮れて行く空を見あげた。烏が連れだって塒(ねぐら)へかえって行く。
 芝の家から上野の下の薪屋の二階に移った。絵を描いて、どうやらやってゆけそうに思ったが、見る物聞く物、皆郷里を思い出させる種であった。継々(つぎつぎ)のある足袋を見ても母が恋しくなった。停車場の汽笛の笛にも、何となく人懐かしい思いがした。

(其の七)

 そんな時には何時も△氏を訪ねた。帰る途中、或る橋の上に佇んで、師走の街をふり返って見た。多忙(いそが)しそうに行く人来る人も、まるで私とは交渉のない冷たい顔をしていた。誰一人振り返って見る者もない。ひとりぼっちと云う淋しい気持ちをしみじみ覚えて、郷里(こきょう)の年の暮、家にいた頃の年の暮を思い出すと、直ぐにも帰りたい気持ちになったが、さて旅費は足りそうもない。細い月がいつか西の空にかかっていた。その下にはなつかしい郷里がある、母もいる弟も妹もいる、けれども帰れない、暗い川面を見つめていたが、いい考えは思いつかない…。何所(どこ)からか、鐘の音が響いて来た…。まるで芝居の様だなと思うと、急に頭脳(あたま)が明瞭(はっきり)となった。寒さがぞっと身に沁みて来た。東京で始めての正月を迎えた。親父の写真に正宗の瓶を供えた、ただそれだけの正月だった。

(其の八)

 早々(そうそう)谷中(やなか)の研究所へ出かけた。柳橋で買った縢(かがり)づけの袴をはいて…。其の日は恰度(ちょうど)新年会であった。立派な番組も出来て、余興には研究生のお芝居が三幕、それから手品や黒奴(くろんぼ)踊りもあった。芝居は余り馬力が過ぎたので、後になって、不折さんから叱られた。それからの新年会には余興があってもその時ほどメートルを上げなくなった。その時には、水彩画界の人達も一座したので、二つの会の先生達は、大抵顔が揃った。私は十年の知己百年の恋人にめぐりあったそれよりも嬉しい心地で、隅からその光景を眺めていた。その当座は熱心に通学した。寒い日は毛布(けっと)をひっかむって出掛けた。外套がなかったのだ。そんな事には無頓着であった。それはザット一昔前のはなし――京で生まれて大阪で育ち、今も東京で苦労している。(終)